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2012年8月16日 (木)

『晩鐘』後半 感想

 え~、遅れに遅れていた『晩鐘』後編の感想です。

 ほっとくといつまでも書かないので、「終戦」記念日にUPを目指して書いてみました。・・・・・・ちょっと遅刻したけど。

 

 これまでの記事は以下を参照ください・・・・・・何年越しだよ、この記事。とりあえず宿題が一つ片付いてほっと一息。

『晩鐘』総合案内

『晩鐘』前半

『晩鐘』中篇

『晩鐘』後半 あらすじ

 以下、完全ネタばれです。



 最初に補足を。劇中では言及が無かったけど、百度百科および映画本を見たら捕虜の日本兵や上官には名前や階級があるそうなので、感想をわかりやすく書くために提示しておきます。

  • 捕虜の日本兵(行き倒れていたところを八路軍兵士に救助される)→山田
  • 上官1(兵士らに集団自決を命令)→中尉
  • 上官2(洞窟内で発狂)→軍曹


 さて、この映画に対する日中の映画評のいくつかを見たが、一部の映画評では「戦争の悲惨さ」を表現し、「八路軍の人道主義を体現」する映画であると書かれていた。だが、それは違うのではないか。


 まず監督の意図は何か考えてみると、それはやっぱり「戦争の悲惨さ」を描こうとしたのは確実であろう。しかも日本兵だって戦争の被害者である、という立場にたって描いているのも確実だ。それは敗戦によって昨日までの立場が逆転し、石持て追われ(冒頭で子どもたちが集団で犬を追い回すシーンがあるが、それはそのことを象徴している)食べ物も無くみじめな姿で洞窟に籠もり、ついには上官から集団自決まで迫られる・・・・・・という描写や設定からもよくわかる。

Cap880

集団で犬を追いかける子どもたち


 だが、例え監督の意図がどうであれ、映画を見る者はその意図を越えて「映画内で起こった出来事そのもの」に即してその意味を考えていいと私は考えている。この映画で言えば、「映画内で起こった出来事」とは、「三十三人の日本兵が、捕えていた中国人を殺害し食べてまで投降を拒んで洞窟内に閉じこもり、最後に上官の命令で集団自決を図るも失敗する」という出来事である。

 この映画内部の事件をどう考えるか。特に日本人として、例え中国人の監督が寛大にも侵略者に同情しその悲哀を描こうとしてくれていても、これ幸いとその寛大さの上にあぐらをかいていることは許されないと思う。ましてや、この映画における日本兵たちのあり方を以下のように考えてみればなおさらである。




なぜ「荒城の月」なのか?


 日本兵の悲哀を象徴するシーンであり、この映画の白眉の一つでもあるシーンが、集団自決を決心した洞窟の日本兵たちが皆で「荒城の月」を歌う場面。当然日本語で歌われていて字幕も無いが、その物悲しいメロディは集団自決をするまでに追い詰められた日本兵たちの悲劇的な運命を中国人観客にも充分に伝えることだろう。

 監督がこの世に別れを告げようとする日本兵たちが最後に唄う歌に「荒城の月」を選んだのは、その物悲しいメロディが敗残の日本兵たちの悲哀を表すのにぴったりだったからという可能性が高い(ちなみに映画全体のテーマ曲にもなっている)。しかし、その歌詞を見ていると、

春高楼の花の宴 巡る盃かげさして

千代の松が枝わけ出でし 昔の光いまいずこ

(略)

天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿

写さんとてか今もなお 嗚呼荒城の夜半の月

と、全体として昔の栄華が失われてしまった悲しみを唄う歌となっている。確かにメロディだけでなく歌詞も敗残の身となり立場が逆転した日本兵たちにふさわしい一曲かもしれない。


 しかし、本当に日本兵たちが歌うべきは「荒城の月」だったのだろうか?


 ここで思い出すのは、この日本兵たちが捕らえていた中国人を惨殺し、その肉を喰ったという出来事だ。なぜそのようなことをしたのかと言えば、食糧が尽きても投降を拒みあくまで洞窟の弾薬庫を守ろうとしたからである。そして部下に集団自決を勧める中尉は

「我々はここで自決して、天皇陛下に忠誠を誓おう」

と言う。「天皇陛下に忠誠を誓う」。これが彼らにどんな手段を用いてでも弾薬庫を死守させた論理であり、そのためにこそ囚われの中国人は殺され喰われた。殺された中国人は彼らのその信念と何の関わりもない。ただ彼らの信念だか妄念だかに巻き込まれ無残にも殺されたのである。

 日本兵たちの集団自決は、自らの妄念に巻き込まれて殺された者たちへの贖罪のためではまったくない。むしろ彼らを殺すことになった妄念を貫徹させるためのそれである。


 そして昔の栄光を懐かしみ現在の没落を嘆く「荒城の月」を、昔日の勝者としての立場を失い自ら死に赴かなければならない日本兵たちが唄う時、歌は諸行無常の普遍的なテーマを失い、ただただ自己憐憫の歌として機能する。そうでなくても、「荒城の月」には何の関係もなく殺された者に対する贖罪や鎮魂の意味は本来無いのだ。わざわざそのような歌を選択する彼らは、自分たちによって殺された人々に向き合おうとせず、ひたすらに自己憐憫の殻の中に閉じこもったまま死んでいこうとしているように見える。


 監督が果たして「荒城の月」の歌詞の意味を理解した上で使用しているかはわからない。しかし、映画は「荒城の月」のラストで歌に重ねあわせるように殺された中国人の墓を映し出している。これを見ると監督はやっぱり意味を分かった上で使っているのかもしれない。だとすると、この「荒城の月」と殺された者の墓を重ね合わせる場面は、いったん「日本兵だって戦争の被害者」と相対化した視点自体をもう一度相対化するということをやっているのかもしれない。

Cap1015

「荒城の月」と重なる被害者の墓




なぜ日本兵たちは集団自決を了承したか?


 最初に言っておくと、ここで扱う集団自決はあくまで「この映画の中」で行われようとした集団自決であり、戦争末期に各地で実際に起こった民間人や軍人の集団自決の分析ではない。あくまで<この>集団自決に関する話に限定して話していく。


 一度は投降しようとしたが、中国人を殺して食べていたことが八路軍にばれて再び洞窟に逃げ込んでしまった日本兵たち。そこで中尉は「我々はここで自決して、天皇陛下に忠誠を誓おう」と兵士たちに集団自決を提案し、兵士たちはそれをおとなしく受け入れる。

 この時、なぜ兵士たちはこうも簡単に集団自決を受け入れたのか? 彼らが中尉の提案にうなずくその動作には一人も少しの躊躇もない。しかし、映画のラストで洞窟爆破の試みが失敗して中尉一人だけが自決を遂げた後は、誰もそれ以上後に続こうとはしないのである。彼らが「天皇陛下に忠誠を誓う」ことを良かれ悪しかれ自らの信念としていて、そのために集団自決を了承していたのではないことは明らかだ。そうであれば、当初の計画が失敗しても中尉の後に続く者があってもいいはずである。

Cap1018

一人自決した中尉とうなだれる日本兵たち


 もちろん彼らが集団自決を了承したのは、それが中尉の「命令」であったからだ。中尉の態度は威圧的や脅迫的なものではなくむしろ反対でさえあったが、兵士たちにとってまぎれもなく絶対に服従しなければならない「命令」と受け取れるものであった。しかし、明確に自らの死に追いやる命令をこの時の彼らはいかにして受け入れることができたのであろうか?


 ここでもまた想起すべきはあの「捕らえていた中国人を殺して食べた」件だ。なぜそのような残虐行為が可能だったかと言えば、それが「弾薬庫を守る」という至上命題を遂行するために必要な「命令」であったからだろう。「命令」は時に人に耐えがたい残虐行為を実行させるが、同時に個人の責任を免責する効力を持つ。これは軍隊において上官の命令によって行ったことに対する責任を下級兵士が負わなくて良いのと同時に、個人の心理的倫理的な責任からも逃れることができるという意味である。「あれは命令だったのだから仕方がなかった」と思うことができるようになるというわけだ。

 実際問題としても、軍隊において、特に旧日本軍において、それがいかなる内容であれ軍命を拒否することはほとんど不可能であったに違いない。しかし、命令の拒否が難しければ難しいほど、残虐行為を実行する心理的ハードルとやってしまったことに対する罪の意識は低くなるのではないか。命令拒否を許さぬ力が強い環境であればあるほど「あれは命令だったのだから仕方なかった」という感情も強くなるというものだろう。

 そうであれば、映画の兵士たちの間で、人を殺し食べたことがほとんど意識されていないように見えるのも納得である。彼らは命令によって行ったこの残虐行為に個として向き合う必要性を感じていないし、だから殺された相手の存在も軽い(八路軍兵士の一人が憤慨したように、八路軍に助けを求めた山田は殺した中国人のことやまだ捕らえている者たちの存在を当初無視していたとしか思えない)。唯一、軍曹だけが八路軍が差し入れた肉を見て吐いたが、命令を発する側に立っていた彼には「命令だから仕方なかった」という論理に逃げ込むことができなかったというわけだ。


 だが、この「命令だったから仕方ない」という免罪符は兵士たちに皮肉な運命をもたらす。それが先の集団自決の「命令」である。

 実際問題として、あの状況下で集団自決の命令から逃れることはほぼ不可能であっただろう。だが、例えほぼ不可能だとしても命令を回避して生き延びる方法を少しでも考える者がいてもいいように思えるが、そんな迷いがある者は誰一人としていなかった。

 もし自決の命令を拒み生き延びる道を模索しようとすれば、必ず「命令」によって行ったあの残虐行為の問題にぶち当たるだろう。集団自決が命令だから仕方の無いことではないとするなら、あの残虐行為はなんだったのか。自分を死に追いやる命令は拒否するが、他人を殺したのは命令だから仕方なかったという論理は決してなりたたないのである。「命令だから仕方なかった」という他者への加害に対する免罪符は、最終的には自らを死に追いやる誓約書へと成り果ててしまったのだ。


 もちろん、それでもなお(心理的な意味で)集団自決命令を拒む余地はある。先の命令によって行われた残虐行為に対し、「命令だから仕方なかった」という自己欺瞞を止め、個としてその罪と責任に向きあう、ということと引きかえにして。

 しかし、後述する山田を除いて、劇中では誰一人その道を選ぶ日本兵はいなかった。自己欺瞞の殻から出るくらいならば、「命令だから仕方なかった」というストーリーを完成させるために唯々諾々として死ぬことを選んだ。だとするとこの映画の中で起こった出来事は、ゾッとすることを教えてくれる。すなわち、人は自己欺瞞を貫徹するためには死を選ぶことも辞さない、ということである。




なぜ中尉は集団自決を提案したか?


 ここまでなぜ一般兵士が集団自決を受け入れ、「荒城の月」を唄った背景を分析してきたが、ちょっと脱線してそもそも中尉はなぜ集団自決をしようとしたかを考えてみたい。


 そもそも「天皇陛下に忠誠を尽くす」と言っているが、彼は一度は八路軍と山田の呼びかけに応え、おそらく投降するために部下たちと洞窟から出てきた。この段階で「戦争は終わった」という山田の呼びかけによって「弾薬庫を死守する」という至上命題の意味が失われてしまったからだろう。


 だが、彼らはすでに中国人を殺害し喰ってしまっている。しかし、八路軍側はそのことを知らず、洞窟の中にまだ三人の中国人を監禁していることも知られていない。このまま、生き証人である三人を置き去りにして投降すれば、その罪は外部に知られることはないだろう、部下たちはどうとでもなる、と中尉は考えていたのかもしれない。

 しかし、捕えていた一人が脱出したことで彼らの罪がばれてしまい、彼らは投降をやめて再び洞窟内に閉じこもってしまった。

 だとすれば、一度は投降を考えた中尉が集団自決を決意したのも、食人の件がこれ以上広がるのをふせぐため、部下や外の八路軍兵士もろとも証拠と証人を消そうとしたのかもしれない(監禁されていた三人は衰弱が激しく解放後に死んでしまった)。実際に、彼らが自決のために用意した火薬の量は、洞窟を完全に破壊し外で返答を待っている5人の八路兵たちも爆発に巻き込むのに充分な量だったのである。

 しかし、軍曹の発狂と山田の行動によって中尉の証拠隠滅策は失敗し、彼は一人割腹自殺を遂げるのである。映像では彼の腹から流れる血と惨殺された中国人の流した血が重なり合ってどこか因果応報を感じさせる表現になっている。





軍曹はなぜ発狂したか?


 中尉は八路兵を引きつけて爆発に巻き込むため部下を連れて洞窟の外に出たが、軍曹は爆薬に点火するため洞窟内に残った。しかし、軍曹はやはり洞窟に残っていた山田の姿が殺した中国人の亡霊に見えてしまい、脳裏にあの中国人を惨殺―暴れる相手を洞窟の外に引きずりだし数人でめった刺し―した場面がフラッシュバックしてとうとう発狂してしまう。

Cap1017

フラッシュバックする惨殺の記憶


 軍曹の発狂の直接的な引き金は「亡霊」が見えたことだが、そもそもそのような錯乱をする下地となったのは、弾薬の数が何度数えても合わないことであった。

 軍曹は一箱一箱弾薬箱の数を数えていくが、何度数えても一箱足りない。そして軍曹が何度も何度も数え直しているうちにだんだん精神の均衡を崩していく場面は短いながらも見ていて血の気が引くような秀逸なシーンである。
 

Cap002
何度も数え直す軍曹はすでに狂気に蝕まれている




 先に一般の兵士たちが食人を犯しながら平静でいられる理由を「命令だから仕方なかった」という自己欺瞞のためだと書いたが、では命令を出す立場にいた軍曹はいかにして精神の均衡を保っていたのか?

 そもそも彼らが中国人を殺し食べたのは弾薬庫を死守するためだった。なぜなら弾薬はそれとして重要だっただけではなく、旧日本軍にとっては他の武器と同じく「天皇陛下よりいただいたもの」という考えがあったからだろう。その至上命題のためには個としての良心を眠らせ、いかなる残虐行為もやってのけることができたのだろう。

 しかし、そうまでして守った弾薬の数が合わない(本当に数が足りなくなっていたわけではなく最初はただの数え間違いだったのだろう、だが数え直しているうちに悪循環にはまっていったのではないかと思う)。彼の行いはすべて無駄であった。兵士たちのそれよりも脆弱だった軍曹の自己欺瞞の殻は容易に壊れ、暴力的に自分の行いと向き合う(=亡霊を見る,記憶がフラッシュバックする)ことになり、均衡を崩していた精神は崩壊したのである。


 爆薬への点火を行うはず軍曹の発狂によって、山田は導火線の火を消すことができ、洞窟爆破は阻止された。言い換えれば、自己憐憫の貫徹、そして証拠隠滅としての洞窟爆破を阻止したのは山田のみならず殺された名も無き中国人であったのかもしれない。

 ちなみにこの軍曹、発狂した後に調子ぱっずれの明るい声で「荒城の月」を歌うのだが、こういうのを見るとやっぱり監督は「敗残の日本兵の悲哀を表現するため」っていう意味で「荒城の月」を選んだのではないのかもしれない。





洞窟に籠もる日本兵が表すもの


 ここまで考えてみると、劇中の日本兵たちの「洞窟に籠もる」という行為はなにかとても示唆的に思えてくる。


 集団自決の「提案」を受け入れてからの洞窟内の描写の緊張感は尋常ではないものがある。画面のこちら側にいる者まで息苦しくなってくるような、あるいは周りの重力が重くなってくるような気になる。見る者の周りの空気を薄くし、重力をも変えてしまう映像がこの世にはあるのだ。圧倒的な沈黙の中で、洞窟の天井から落ちる水滴の音と虫の羽音だけが聞こえてくる。

Cap1014

闇と沈黙の中に息をひそめる日本兵たち


 そしてその一筋の光も差しこまない洞窟の闇の中に日本兵たちは声もなく潜んでいる。死をも厭わぬ自己欺瞞と自己憐憫、あるいは証拠隠滅の企みだけを抱えて。彼らは洞窟の外に出て行ったが、その心はなお洞窟の中に籠もったままである。


 私はその姿に戦後日本のあり方を見る。

 劇中で中国人らは何の関係も無かったにも関わらず、「天皇陛下への忠誠を誓う」という日本兵たちの妄念に巻き込まれて無残に殺されていった。そして現実の歴史にあっても、数多くのアジアの人々が、あるいは「天皇のため」あるいは「大東亜共栄圏のため」あるいは「日本人の利益のため」といった大日本帝国の妄念やら都合やらに巻き込まれ死んでいった。

 しかし、戦後になってもそれらの踏みにじられた人々に日本は、日本人はどれだけ向き合ってきただろう。劇中で山田が自分たちが中国人を殺し監禁していることを隠したままあるいは気にも止めないまま八路軍に助けを求めたように、彼らの存在を気に止めてこなかった。自己欺瞞の物語の完成にまい進しその結果死に行くことになった自身の悲劇のみを歌う日本兵たちのように、戦後、長い間、戦争で受けた被害ばかりが語り継がれ、加害を忘却するストーリーが紡がれ、個として被害者と向き合ってこなかった。

 部下や八路軍兵士もろとも犯罪の証拠を隠蔽しようとした中尉のように、終戦後の文書破棄だけではなく、加害を語る内部あるいは外国の人々の声は抑圧され、時には攻撃されてきた。しかし軍曹の元に「亡霊」が襲来したように、(加害者側にとっては)突如として被害者の存在が迫ってくることがある。ちょうど90年代に従軍「慰安婦」だった人々が名乗りをあげ、歴史の見直しを迫ったように。


 加害の記憶に目を閉ざす戦後の日本や日本人はいまだ洞窟の中に籠もっているようだ。そこには一筋の光も差さない。過去に目を閉ざす者には未来も暗闇の中にある。

 だから、彼らの中で一人だけ異なる行動を取った山田が、洞窟の中で唯一光が差し込む場所で外の世界を見上げている場面もまた象徴的だ。

Cap010

一人、光の下に佇む山田



 山田は食糧を探し行き倒れているところを八路軍兵士らに助けられ、彼らとともに洞窟の仲間に投降勧告を行った。再び洞窟の日本軍と合流したが、疲れきって眠っていたため洞窟内に軍曹とともに置き去りにされた山田は、目を覚ました後、光の方へ行く。その光に照らされながら、まだ自分が何をすべきかもわからないように呆然と立ち尽くしている。

 軍曹が発狂した後、山田は火の点ける導火線を断ち切り、洞窟爆破を阻止するのである。そして代わりに壁にかけたままだった出征祝いの旗に火を点け燃やしてしまうのである。まるで無辜の人々を死に追いやった仲間たちの妄念を燃やしてしまうように。

 山田は短い間だけとはいえ八路軍兵士という「他者」と出合った。洞窟にいるのは日本兵だけだと言い、監禁していた中国人たちを人間扱いしなかったことを責められた。おそらくこの「他者」との出会いが、山田を自己憐憫と自己欺瞞の洞窟の闇から光の方へ歩かせ、自ら出征祝いの旗に火を点けさせることに繋がった。ここに唯一の希望がある。

Cap007

燃え上がる出征祝い旗



 ラスト、山田と彼を助けに来た八路軍連長によって、あるいは出征祝いを燃やした炎が点火して洞窟は爆破された。籠もるべき洞窟は無くなった。しかし、現実の日本は、日本人は洞窟から出て来られたと言えるだろうか?

 本当にこの映画は日本でこそ作られるべき映画であった。このような映画が日本で作られていない、という事実こそ、私たちがいまだあの洞窟の闇の中に閉ざされているということではないかと思う。




ピックアップ場面

Cap1019

発狂した軍曹が笑顔で洞窟から出てくる場面。


 すでに中尉は一人で割腹自殺し他の兵士たちがうなだれる中を、すべての苦悩から解放された軍曹が晴れ晴れとした笑顔を浮かべて歩く異様さを極めたシーンである。それでいて八路軍兵士にぶつかった時に、いかにも日本人的発音で「ニーハオ」などと言う瞬間は思わず笑ってしまいそうだ。・・・・・・って言うか、この場で「天皇陛下ばんざーいちくしょう」なんて台詞考えた人誰だ、天才すぎる。

Cap1020

「うおーい、いい天気だねぇ。ひひひ、ふふふ、ははは、いひひひっ、あ、あれあれ、うはははは、(うつむく日本兵たちを眺めながら)どうしたの?君たち何してるの? うふふふ、どうしたの皆さん? ひひひ、(八路軍兵士にぶつかって)ニーハオ、ああ天皇陛下ばんざーいちくしょうこのヤロー・・・・・・(岩壁にぶつかり)3317、3318、3319・・・・・・」

Cap006

崩れ落ちる軍曹



 そしてこの後、軍曹は岩壁にぶつかるがそれを理解せず、まるでガラスにぶつかる虫のように何度も岩壁に身体をぶつけ、やがてゆっくりと崩れていくのである。やはり彼も何処にも行けない。

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