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2012年7月26日 (木)

セデック・バレ感想(2)

 と言うわけで、『セデック・バレ』感想続きです。前回のはこちら。


 前回は多言語の話だけで終わってしまいましたが、べつにこの映画で最も大事なのは多言語問題だと言いたいわけではないです。多言語による「ズレ」と「しかけ」はこの映画の一要素でしょう。ただ、自分が注目し他でもあまり触れられていない話題みたいなのでちょっと力を入れて触れてみました。

 あと、繰り返しますが、私が見たのは2部構成4時間の大作を2時間半に圧縮した中国放映版(インターナショナル版らしいです)であること、さらに一度しか見ていない上に、日本語以外のセリフは中国語字幕で理解するしかなかったこと、極めつけにブログ主は人物の識別が苦手であること・・・・・・などの何重苦状態での鑑賞だったので、いろいろと間違っている部分もあると思います。「私の見た『セデック・バレ』と違う!』」と言うことになっているかもしれません(汗)。

(後に完全版を見ましたが、やはりインターナショナル版の感想を書くことにします)


 以下、まとまりの無い感想をつらつらと。(ネタばれありです)







10


  この映画には対照的な二人の日本人警察が出てくる。日本の台湾支配を支えるものは日本の軍事力だが、末端で統治システムを支えるのが各地・各部落に配された駐在警察と学校であったのだろう。そう考えれば主人公モーナルダオら蜂起セデック族が駐在所とともに学校を襲撃したのはなかな象徴的だったんだな。

 ちなみに↑の写真は運動会でセデック族の少女らが日の丸を上げる場面。わざわざ民族服を着せてこういうことをやらせるのってえげつないよね、今の中国でもよくやってるんだよねわざわざ民族服着てパフォーマンスやらせるの、あれはえげつないと思うわぁ。


 さて、映画内で重要な二人の駐在警察官の一人が吉村。モーナルダオたちの部落の新任駐在警察である。彼はセデック族を野蛮人として差別し、その文化や民族的誇りを侮蔑してセデック族との衝突も繰り返す。なかなか典型的な「横暴なる植民者」と言える設定である。映画ではこの吉村の傲慢と暴力が蜂起のきっかけになったように描かれ、蜂起の準備である駐在所襲撃の際に真っ先に殺されている。

 そして彼と対照的なの駐在警察官が小島という男。元々モーナルダオの部落に駐在していたが、転勤で吉村と交代し、モーナルダオらと敵対する鉄木・瓦力斯の部落(ここもセデック族部落)へ行った。小島は自らセデック語を学び、セデック族に対しては彼らの言葉で流暢に話す。セデック族を侮蔑せず、その文化を尊重し、彼らと良好な関係を築いてる。吉村との摩擦にいらだつモーナルダオの部落の男たちも「小島さんだったらこう事を大きくしなかっただろうに」と彼が転勤してしまったことを惜しんでいる。

 つまり吉村は支配者の特権を振りかざしセデック族を野蛮視し、彼らを差別し侮蔑してやまない悪役として描かれる一方、小島は支配者の傲慢はなく、セデック族の文化を尊重するばかりか自らそこに溶け込み相互理解を図る良心的な存在(あるいは「日本人だって悪い人ばかりじゃないんだよ」要員)として描かれるわけだ。


Photo



 でさ、あえて言わしてもらうけど、モーナルダオたち蜂起部隊はこういう小島のような男こそ真っ先にぶっ殺すべきだったんじゃないか、と映画見て思った(どうせ学校を襲撃して女子供まで殺すほど突き抜けちゃったんだから)。・・・・・・いや、なんとなく。

 学校襲撃の際に小島はその場にいなかったけど、もしいたとしてもモーナルダオは(旧知の仲と言う理由からだけでなく)小島のことを見逃してしまったんじゃないかなぁ、と思える(まあ、もうそういう段階でも無いようだったが)。でもやっぱり殺とっくべきだったと思うよ。



 で、小島が駐在していたモーナルダオの敵対部落(同じくセデック族)の元にも、蜂起の報が届き、部落の若者たちも興奮して「蜂起に合流しよう!」とか「俺たちもまずあの日本人(小島)を血祭りにあげよう!」とか盛り上がって小島は危機に陥る。しかし、族長の鉄木・瓦力斯が「彼は私の友人だ」(←みたいなことを言った気がする)と言って「殺せ殺せ」と興奮する若者たちから小島をかばってあげる。

 と、ここまではいいんだが、小島も突然の事態に興奮し「私が君たちになにかひどいことをしたとでもいうのか!」と半ばヤケになって叫ぶ・・・・・・う~む、一応小島の妻子は学校襲撃の際に殺されていて、さらに仲良くやっていたはずの村人たちから「血祭りにあげろ!」と言われていろいろ衝撃を受けていたり裏切られたような気分になっていたのはわかるのだが・・・・・・ぶっちゃけちょっと引いたね。

 さらにモーナルダオたちの蜂起に加わろうと若者たちが騒いでいる時に日本軍の戦闘機が上空を通過していったのだが、小島は「見ろ! 君達にあんな飛行機があるとでもいうのか!?」とか言い放っちゃう場面とか・・・・・・ついさっき鉄木・瓦力斯が危険を犯して彼をかばったことと比べると・・・・・・かなり最低だと思いました。


 その後、小島によってモーナルダオとの長年の敵対関係を思い起こさせられたこともあって、鉄木・瓦力斯の村のセデック族は蜂起に合流しないどころか、日本側の警備隊として編成されてしまう。蜂起部隊は険しい山中を自由自在に動いてゲリラ戦を行い、ジャングル戦に慣れない日本軍を翻弄していたが、同じくジャングルを駆け回るのに慣れたセデック族が投入されたことでその優位がだんだんと切り崩されていく。

 劇中には鉄木・瓦力斯の村のセデック族が警備隊に編入される場面があるが、この編入を指揮していた者が小島であるかどうかはよくわからなかった。しかし、このいかにも植民地で発生するお決まりの「分断」は、小島がセデック族を理解し彼らと友好関係を築いていたからこそ可能になったことは疑いない・・・・・・うん、やっぱり彼を最初に殺しておかなかったのがまずかったですね。


「智恵のない者から知恵のなんたるかについて学びたくはない。金と大砲しか持たず、友情を壊すことしか知らない連中とは」

 これはドイツ系ユダヤ人で後にイスラームに改宗し、中東各国を渡り歩いたムハンマド・アサドの著『メッカへの道』にあるアラブ人の言葉。西洋がイスラームを文明化しようとすることに対する皮肉である。小島を見ているとどうもこの一節を思い出す。妻子を殺したモーナルダオたちへの憎悪はしかたないとしても、自分のことを「友人だ」と言ってかばってくれた鉄木・瓦力斯の「友情」を彼はいったいなんだと思っていたのだろう?



 さて、このセデック族VSセデック族の構図は「支配者による被支配者の分断」という植民地下でよく見られる構図と言えるかもしれない。だが、この映画では日本軍に味方した鉄木たちを単にそんな受動的あるいは利用されただけの存在とは描いていないように思える。


  モーナルダオと鉄木・瓦力斯の部落は日本が侵入してくるよりずっと以前から激しい敵対関係にあった。どちらが相手の首を狩るか狩られるか・・・・・・映画の冒頭でも両部落の仁義無き戦いが描かれている。

 しかし日本の支配が完成してからは、部落間抗争も首狩りも禁じられてしまったようである。実際、映画中盤でも森の中でかちあって一触即発になった時、小島が仲裁に入って両者をとめている。

 ちなみに映画中盤で両者の争いを仲裁(=部落抗争、首狩りの禁止)をした小島が、映画後半では「君たちはこの前もモーナルダオたちから殺してやると言われたじゃないか、なのに今になって彼らと一緒になろうっていうのか」と鉄木・瓦力斯たちが蜂起に合流することを止めたばかりか、彼らのモーナルダオらに対する敵愾心を煽って彼らと戦わせている。自らの統治の都合によって部落抗争を禁止しておきながら、ある時には煽るという日本の振る舞いを体現しているようにしか見えない。


 話を戻すと、日本軍に協力する鉄木・瓦力斯の部落のセデック族も森の中で集団自殺した蜂起部落の女子どもの遺体の山を見つけてからはすっかり戦う気がうせ、小島にも「自分たちはもう戦わない」と宣言する。小島は激怒しなお彼らに戦うように迫る。それに対して鉄木・瓦力斯は小島に刃を突きつけつつ「俺達が戦うのは死んだおまえの家族の復讐のためではない! 俺達自身のためだ!」と宣言する。

13

 鉄木・瓦力斯と彼の部落にとって、モーナルダオの首を狩るのは、日本人の都合とは全く別の彼ら自身の悲願なのである。そのことを鉄木・瓦力斯ははっきりとさせた。



 モーナルダオは日本人が自分たちを「文明化」したことで民族の誇りが汚されたと感じている。だから自分とセデック族の若者たちが「セデック・バレ」となるために、霧社襲撃、日本人皆殺しという『血祭』を行ったのだ。「セデック・バレ」とは「真の人」という意味であり、死後に祖霊の眠る虹の橋のたもとに眠る資格を得た者である。

 実を言うとモーナルダオたちの目的は霧社襲撃の段階ですでに終わっている。この後、彼らは山にこもってゲリラ戦を戦うがその前にモーナルダオは若者たちに「君たちは『血祭』によってすでに「セデック・バレ」となった。死後は祖霊の元にいけるであろう。だからなにも恐れることはない」と語っている。まさしく彼らにとって霧社襲撃=セデック・バレとなる、なのであった。


 では鉄木・瓦力斯たちの方はどうか? セデック族にとって強い敵の首を狩ることは英雄の証である。つまり日本人によって禁止された首狩も「セデック・バレ」になるための条件ではなかったか?(霧社襲撃の際のモーナルダオたちも首を切る行為にこだわっていた)。と考えれば、一見日本軍の手先となって「分断」の見本のようなことをしている鉄木・瓦力斯たちも、モーナルダオたちと同じく「セデック・バレ」となるために戦っていたと言えるかもしれない。

 「分断」は過去のみならず今日的な問題であり、そのような手段を弄する支配者(あるいはマジョリティ)側は批判すべきだと思うが、しかしその「分断」の当事者たちが何も支配者に騙され踊らされているだけの主体性のない存在と見なすことはないのではないか? 映画のラストで鉄木が若き日のモーナルダオの幻影を見ながら戦死していく場面は彼が一人のセデックの戦士と死んだという点で救いがあったのかもしれない。



 さて、この『セデック・バレ』についてはtwitterやブログなどで感想をいくつか見たが、どうもいまいち納得できるものはあまり無かった(特に決まり文句のように書かれる「この映画は「抗日」や「反日」といった話に収まるものではなく・・・・・・」とかマジでうざいです。んなことをいちいち書かないといけない法律でも施行されてんですか? 私は絶対にこの手のアホな文章は書かないぞーと心に決めている)。


 で、違和感を感じたものの一つがこのツイート

「抗日映画っていう位置づけが大陸での不調の原因なんじゃないのかな~。 だって、台湾の日本への愛の映画だもの~ >セデック・バレ


 ハイクでも書いたが、もし監督がこのような認識で映画を撮ったとしたら、それは無神経極まりないことである。なるほど、霧社事件は確かに「台湾の歴史」の一部である、。と、同時にこれは今もって台湾社会において圧倒的に少数派である先住民「セデック族の歴史」の一部である。

 監督・魏徳聖はたいへんな日本好きであるらしい。その「日本への愛」を映画にこめること自体は監督に好きにすればいいだろう。ただそこで問題になるのは、その映画が何を描いているかだ。セデック族が「同じ台湾人」であるにしても、同時に彼らは漢族であり台湾社会において多数派に属する監督とは別の歴史を生き、あるいは現在も別の現実を生きているかもしれない「他者」でもあるはずだ。その「他者」の悲惨な歴史を、自らの「日本への愛」とやらの発露に利用するとしたら、それは横領であり、これほど無神経かつ傲慢なふるまいも無い。

 ここで一言言うと、少なくとも私が見た限りでは、この映画は他者の歴史を横領するような作品では無かったと思う。いくらか「危うい」と思った箇所はないではないが、むしろセデック族の歴史を、彼らの選択をありのまま描こうという意思は感じた。モーナルダオらを「蛮族」化せずさりとて「英雄化」化せず、容易には受け入れがたい行為もありのまま描く・・・・・・それが「同じ土地に生きる他者・マイノリティー」をマジョリティーが描く方法の一つであることを監督側は理解しているように思えた。問題があるとしたら、それを「台湾から日本への愛」などとまとめてしまう観客側にある。


Photo_2



 上記のツイートだけにとどまらず、この映画は一部(?)の連中からは、「親日台湾が反日映画を作った」という愚にもつかない物議を醸したが、彼らは何のためらいもなくこの映画の物語を「台湾」にカテゴライズする。これは彼らよりもう少しまともなことを言う観客にも多く見られた傾向である。そこではこの映画がまず「台湾の先住民・マイノリティー」の闘いの歴史を題材にしていること、そしてそれをマジョリティーが描くことの孕む問題や難しさなどは容易に忘却される(例えば、白人の監督によるコロンブス以前のネイティブアメリカンの歴史を描いた映画を「アメリカの歴史を描いた映画」と言ったり、琉球国の歴史を描いた映画を「日本の歴史を描いた映画」と言うことの問題性を想像すればいい)。それはまた、日本において同じ地に暮らしながら異なる歴史を持ち、異なる現実を生きる「他者」への無頓着さへの表れである。

 私は現在の台湾社会においてセデック族をはじめとする先住民族がどのような状態にあるのか知らない(少なくとも数の上では圧倒的に少数派らしいが)。もしかしたら真実なにも問題も軋轢もないのかもしれない。私としても台湾社会に詳しいわけではないので、あまり「分断」を印象づけるような書き方は避けたいが、少なくとも一般論として「同じ○○人であること、同じ○○人が同じではありえないこと」に対する注意というのは表現者たるもの最低限標準装備しておくべきだろう・・・・・・実際には装備していない人も多いように思えるけど。



 最後に2、3短い感想を。


 この映画で覚えた違和感と言えば、セデック族をあまりに「らしく」描きすぎたこと。・・・・・・いや、私はセデック族の文化や伝統についてよく知らないので考証が正しいかどうかは何も言えないが、「ああ、セデック族ってこういう文化や伝統があるんだ」と感じさせてしまうほどの説得力が映画にはあった。「野蛮」と蔑まれたセデック族の文化や伝統を尊重している映画なのだから、それを強調するのはわかる。ただあまりに「らしい」のが問題だ。(ちなみにこの「らしさ」というのは「ステレオタイプ」という意味とは違う意味で使っている)

 本当の民族の文化や伝統なるものが存在するとして、それは「らしく」描けるものなのだろうか? 「○○の文化や伝統とはこういうものである」と理解してしまった瞬間、理解から遠ざかるものではないだろうか? 現実の民族の「文化や伝統」というのは、「何々民族らしい」といったものから微妙にズレ、かつ流動的であるものが現実の「民族の文化や伝統」ではないだろうか?


 2点目。この映画は徹頭徹尾男たちの視点で描かれている。まあ、セデック族の男たちの太ももだけでも特に問題ないのだが、女性陣のことをもっと描いてほしかったね。戦士たちの足手まといにならないために、そして乏しい食料を彼らに回すために、子どもたちとともに淡々と集団自殺していった彼女たちのセデック族としてかつ女性としての生き方をもっとつっこんで描いてほしかった・・・・・・今度、誰かがセデック族の女たちを主人公にした映画作らないかなぁ。民族であること女性であることが決して対立するものではないという視点でさ。


 そんで最後に笑った点を。日本男児ヒステリーすぎ(笑)。駐在警察・吉村のヒスぶりもなかなか笑えたが、モーナルダオ蜂起の鎮圧に来た日本軍司令官がそれに輪をかけてヒス男でした。いやぁ、日本の男=ヒステリー持ちっていうイメージなのかねぇ? 女のヒステリーは手に負えないというけど、男のはさらに手に負えないうえに権力持っているのが多いからタチが悪いと言うのがよくわかります。とりあえず部下たちはセデック族の蜂起より目の前の上官のヒスに困っているみたいだけど。その司令官が映画のラストで唐突にもの分かりがよくなるのも笑うポイントです。



 と、いうわけで、なんとか『セデック・バレ』の感想終わりました。なんか書き忘れていることがあるような気がするので思い出したら書くかもしれないです。

 ところでこの『セデック・バレ』、マジで日本で上映して欲しいんだけど、上映運動とかどうやってやるのかね? 方法と時間のめどさえつけば上映運動やってもいい映画なのだけど・・・・・・。

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コメント

蜂起の知らせが来た時の小島の言動はあっぱれだったと思います
テム.ワリシュに庇われて叫んだあの言葉は「日本警察」としてでもなければ「テム・ワリシュの友人」としてでもなく、あくまでも「小島」として「私が君たちになにかひどいことをしたとでもいうのか!」と叫んだと思います。やけになったのは自分が殺される事にたいしてではなく、日本人だからと言う理由だけで自分を殺そうとする部落の若者たちに憤慨したからだと思います。なんとなく「なんで分かってくれないんだ!」って聞こえたような気がします。

テム・ワリシュはモーナ・ルダオのように一喝で皆を黙らせる威信や統率力がなく、小島を庇うことが出来ても、蜂起に合流しようとする若者たちを止めることができないと思います。
それを察した上で「見ろ! 君達にあんな飛行機があるとでもいうのか!?」と叫んだではないでしょうか。「君たちに死んでほしくない」「行かないでくれ」と小島は「同じ人間」として叫んだではないでしょうか。
覚え間違いではなければこの時小島はまだ自分の妻と子供が殺された事を知らないでいます。それを知った後にどんな心境の変化があったのかはさておき。少なくともこのシーンは真摯に部落の皆の事を考えてこそ身を挺して説いたと思います。

古亭蒼波静さん

 コメントどうもありがとうございます。
 小島に対する見解は私と古亭蒼波静さんとは相当に違いますが、私はどうも当該シーンを中心に小島に対して嫌悪感に近いものを抱いてしまいますので、上記のような見解になってしまいました(あと、観客の大半は小島に好感を持つであろうことに対するひねくれた気持ちのせいもあります(笑))

 もちろん古亭蒼波静さんのような見解もありだと思いますし、むしろスタンダードな見方なのではないでしょうか?
 また、小島の「主観」という観点から見れば、古亭蒼波静さんの見解は的を射ているのではないかと思います。(「君達にあんな飛行機が~」の解釈はちょっと同意できませんが)

 ただ、そうだとしても、つまり小島の言動が彼の主観的には古亭蒼波静さんの見解の通りだとしても、私としては記事に書いた見解を大幅に変える必要性は感じていません。私の力量不足で一見、小島という人間それ自体を批判しているよう読めますが、私が着目しているのは「植民地の人間関係の枠組みにおける小島という人物のありよう」だからです。

 例えば古亭蒼波静さんは

>「日本警察」としてでもなければ「テム・ワリシュの友人」としてでもなく、あくまでも「小島」
>「同じ人間」として

と書かれていますが、私は「植民地・台湾」という場で、「日本警察」ではないただの「小島」としてあるというのはいったいどういうことなのか、「同じ人間」としてふるまうなどということが可能なのか、ということを考えてしまうわけです(ちなみに「テム・ワリッシュの友人」であることと「小島」であることは特に切り離して考えることでもないと思います)。

 別に台湾でも他の所でも関係ないのですが、そもそも「植民地」における人間関係とは圧倒的に非対称なものであり、「同じ人間」であるはずの者同士が個々人の意志を越えて「同じ人間」ではありえなくなることであり、それこそが「植民地」なるものの暴力性の一つだと思います。
 もちろんどんな状況でも「同じ人間」たろうとすることは尊いですし、実際にそうなることは可能でしょう。ただそのためには、「植民地の暴力性」を乗り越えるだけの努力がいるのだと思います。この努力は被植民地側の人間より、優位な側にいる植民者の方に多く求められます。それをせずに植民者が自分も相手も「同じ人間」と<安易>に考えているとしたら、それ自体が錯誤なのではないかと思います。(誤解が無いように言いますと、「同じ人間」としてつき合うことが不可能なのではなく、非対称性に気づかず自分も相手も「同じ人間」と見なしてしまうことが問題なのです)

 で、それを踏まえた上で、あの場における小島にその非対称性を乗り越えるだけの何らかの有効なふるまいがあったかと言うと、私は無かったとみなしています(古亭蒼波静さんとしては、彼らのために身を挺したことをそれと見なすかもしれませんが)。
 だとすると小島の主観がどうであれ、セデック族たちの側からすれば、「日本警察ではない同じ人間としての小島」というのはありえないのであり、小島が「同じ人間」として振舞うほど両者の乖離は進むのではないかと思います。そこに悲劇性と暴力性があります。

 以上、とても分かりづらいと思いますが、私が記事を書く上で前提としていた考えをまとめてみました。
 いろいろご意見もあると思いますが、よろしかったらまた当ブログをご覧になりにいらしてください。

昨日、改めて、第1部かた通して、第2部を見てきました。
一言でいうと、第2部は「残念映画でした」
まるで、ただの「(抗日)戦争アクション映画になったように」思います。
やはり、無理をしてでも3時間ギリギリくらいの、1作品にすべきでしたね。

第1部では「文明が・・・、なら,野蛮は誇りを見せてやる」との決意が伝わりましたが、第2部では制圧山岳作戦が単純に、かつステロタイプされた形で、時間の無駄ように繰り返されました。
(ミニ・ランボー小僧の活躍とかです)

この映画は、3ケ月の時間をかけた山岳での戦いを見る映画ではなくて、もう少し、異なった戦いの推移を描くやり方があったのではと思います。

時間の推移は、アバウトでもいいから、「1ケ月後」とか画面に表せば、判りが良かったと思います。

余計なことですが、あの山岳部族が「あのような山刀を、旧式火縄銃・火薬」をどういう風に手に入れていたのか、気になりました。
(第1部で、日本植民地化される前から、火縄銃は持っている感じです)

第1部が良すぎたのでしょうか?

第2部の出来が本当に、残念でした。

HMさん

 再びのコメントどうもありがとうございます。
 そしてまずはごめんなさい。このブログのコメントは承認制になっているのですが、ここ数カ月、管理者である私の私生活の方がたいへん忙しくごたごたしていまして、このブログの管理もコメントのチェックもほとんどできない状態が続いていました。そのため、HMさんのコメントを数日放置してしまって心配させてしまい申し訳ありませんでした。
 何度か少しずつ内容の異なるコメントをいただきましたが、コメントが反映されないゆえの複数投稿と判断し、最初のこのコメントのみを公開しています。もしその他のコメントも公開をご希望でしたらご連絡ください。公開します。(なお、管理人への連絡など公開を希望しない投稿の時はそのむねを明記くだされば公開はしません)


 さて、第二部もご覧になったとのこと・・・・・・そしてとほほな内容だったと(汗)
 私も第一部に比べ第二部はだいぶ見劣りすると思います。「虹の橋の下ではみな恨みを忘れる」とか示唆に富んだ一郎の最後の場面とか、セデック族同士の戦いとか光る要素も多かったと思いますがやはり全体的にはいまいちでしたね。

 戦闘場面もちょっとやりすぎでしたね(汗)。私はこれはベトナム戦争かよ!と思いました(笑) あと主人公たちはあの橋から落ちてどうやって助かったのかと(短縮版ではあの橋落下のシーンが主人公の最期でした)。しばらくはあの後の主人公のシーンはセデック族の人々が見た幻影だと見ながら勘違いしましたよ・・・・・・。

 まあ二部の悪い点を見てもやはり総合的には傑作だという感想は変わりませんが。

 コメントの件は失礼しました。更新滞りまくりですがまた来ていただけると嬉しいです。

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